えんがわさぼう
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(ふりゅうもんじ)
不立文字(文字で残さず、心で悟る)

 前回、南国生まれの茶が中国に漢方薬として伝わり、粉末に した茶を薬缶で煎じて茶碗に汲んだ茶の色が茶色だと話した。 それが「唐」の時代まで。
 いつの時代も簡略化する人は居るもので、「宋」の時代には 粉末にした茶を碗に直接入れて湯を注ぎ、飲んだ者が出てきた 。多分、匙や使い古した筆を使って混ぜたものと思われる。 そう、抹茶の登場だ。まだ、薬の扱いで一服と呼んだ。
 では、寺で抹茶を飲む習慣はいつ頃からなのだろう?

 一世紀頃の中国にインドから仏教が、続いて五世紀には達磨 大師が河南省少室山の少林寺に“禅”を伝えた。動く禅行の少 林武術と、静かな禅行の立禅や坐禅があった。
 面壁九年と云われる達磨(真偽の程は分からない)は別とし て、どんなに修行をしても人間ならば誰しも坐禅中に睡魔は訪 れる。そう、ここに茶の出番があるのだ。丁度、その頃に日本 から大陸に留学僧が遣って来た。彼らは疑念を抱かずに寺と茶 は不即不離の関係として日本に持ち帰る事となる。帰国した彼 らは急速に増え続ける寺院の建立と共に茶の文化も広げた。当 時、寺院は神社に隣接し「神社寺」として拡がった。
 後に中国浙江省の天目(てんもく)山に禅寺が多く建立された。その土地では土が鉄分を含み、独特の黒い茶碗が焼ける 。修行を終え下山し、帰国する時に持ち帰ったものが“天目茶碗”なのだが、同様の器がなかなか京都で作れない。そこで 当時の日本では最高の技術を誇った瀬戸に注文が来た。当時の轆轤(ロクロ)技術では中国が世界一。唐物(からもの)と 呼んで珍重した。次いで朝鮮半島の焼き物で高麗物(こうらいもの)と呼んだ。

 余談は承知で続けよう。菩提達磨が教えた動禅である少林武術の名声は天下に轟き南北に伝わる。南方は河川や海がある 為、揺れる船上で動けるように脚技よりも手技が発達する。それが琉球王国に伝わり中国(唐)より伝わった手技、略して 唐手→空手。
次回は、どんな茶が美味しいのか? その原理・原則を紹介しよう。